神学大全 第一問 第三項 聖教は単一な学であるか
聖教は学 scientiaである。ではその学とはどういった学なのか。最初に問題になるのがそれは複数の学からなるものなのか、それとも単一の学なのか。トマスの主張は単一の学であるというものだ。ではいつもの通り、異論の紹介から。
①単一の学とは単一の種類の主題を扱うものだが、聖教は神も被造物もどちらも扱う。これらが「単一」でないのは自明だから、聖教は単一の学ではない。
②聖教では天使を扱ったり、被造物を扱ったり、道徳を扱ったりする。全部違う学の対象なのだから、聖教は単一の学ではない。
①と②同じようなことを言っているが、少し意味が違う。「聖教が扱うのは単一の種類ではないですよね?」が①で、「聖教が扱うって言ってるもの、どれも別に扱ってる学が(既に)ありますよね?」が②だ。
トマスの答えはこうだ。対象の種類はその質料(ざっくり何からできてるかみたいな意味だとここではする)ではなく、形相(どういう性質のものか程度の意味に仮にする)によって区別されねばならないと。トマスが挙げている例は「色のあるもの」。人間も驢馬も石も、人間は人間、驢馬は驢馬、石は石で素材としては別物だが、「色があるもの」という形相から見れば同じ種類である。 では、聖教が対象とする「種類」とは何かというと、「神的に啓示されたこと/もの」だ。そういう意味で扱ってる種類は1つなのだから、聖教は単一の学なのである。
この「神的に啓示」というのが繰り返し出てくる。重要な概念なのだろうし、なんとなくはわかるが、ただ自分が信仰を持っていないためか、具体的にはどういったものを啓示と呼び、どういったものが聖教の対象となるのか、まだまったくつかめていない。先を読み進めていくしかないか。
②については、種類というか性質の分類、トマスの言葉で言えば能力 potentiaや能力態 habitusには、階層があるとトマスは言う。例としてトマスが挙げているのは「感じ取れるもの」だ。「感じ取れるもの」という上位の能力/能力態があって、その下に「見える」visibileとか 「聞こえる」audibile といったものがある。
同じように聖教の対象たる「神的に啓示されたこと/もの」の中には様々な種類の区分がある。だから、複数のものごとを扱っているように見えるが同時に「単一のもの」を扱っている、すなわち聖教は単一の学だということになる。
要するに神も含め、この世界の様々なものを、何でもいいのだが、どれも「神的に啓示されたこと/もの」という観点から扱う単一の学(哲学の1ジャンルではない)が聖教だ、ということだ。